風待月。

気ままな物書きの日記。

正しく在りたい。

負けたくない、逃げたくない、目の前にある壁は私に与えられた試練だ。

そう思って足掻いて駆け巡って転んで、漸く今落ち着いた。

 

この数日間、色んな不幸に見舞われた。

どうすればいいか、どう動けば間違えないか、そればかりだった。

間違えたくなかった、誰かにそれは正しかったと言ってほしかった。聞く暇もなかったが、私の判断が正しいと誰かに肯定してほしかった。

 

でも、それを肯定してくれる人は近くに居た。

たった一人の私の恋人だ。彼女は私の話を黙って聞き、途中で遮ることもせずに私を認めてくれた。正しかったね、と言ってくれたのだ。

今はまだ、気が張っている所為か涙を流すことは困難だけど、私は彼女のその言葉のおかげで涙を流せることがわかった。

 

彼女には、感謝してもしきれない。本当にうれしかった。

きっと彼女なら、私が間違えたとしても否定をしなかっただろうけど。

 

正しく在りたい私は、きっといつまでも正しい道を探すために探し回り、転んでは起き上がってまた巡り行く。

その生き方を、私は案外嫌いではないのかもしれない。

この現状がなければ、気付かなかったかもしれない。

 

人と人との繋がりも、大切な人の存在価値の重さにも。

 

皆が皆で、そして私も、共に幸せで在れます様に。

そんなことを願う、土曜の夕暮れの話。

桜桃忌。

過ぎましたけど、昨日は桜桃忌でしたね。

我が憧れの文豪である作家、太宰治。私は、彼の文学の中で一番「女生徒」を好んでいるのですが、皆さんの好きなお話はなんでしょうか。

 

彼が何を想い、愛い慕う女性と心中を成したのか、それは現代を生きる私達にはきっとわかりません。理解できるわけもないんです。

それが、少し寂しいような気もすれば、当然だと何処かで諦めがつくような不思議な感覚ですね。

それでも、彼が成し遂げられた死には少し憧れるんです。

惹かれるというより、羨望。

しかし、彼が心から望む死だったのかは定かではありません。一説によると、現場には引き摺られたような跡が残っていた、という話もあります。彼女が彼を引き摺ったのか、それとも逆に太宰の方が愛する人を黄泉の国まで引っ張ったのか、それもまた、定かでない。

 

 

今日はさくらんぼを食べる予定が、今日に限って売り切れていました。残念。

今日という日を祝うべきか、祝わない方が良いのか。

彼の作品の名を借り、文字を綴る私は許されるのか否か。

 

それもまた、誰にも分からないことなんでしょう。なんて。

今日はこれにて。また。

猫が欲しい。

Twitterでも書いたんですけど、猫が飼いたい。

文豪と猫って関係が深いじゃないですか、小説家志望の僕も猫を飼えば小説家になれるのでは、とほろ酔い気分で書いています。

 

猫欲しいな、猫。

唯生き物を飼ったことなど、幼少期に大きな水槽に金魚が無数にいたことしか覚えていない。猫どころか犬も兎も飼ったことが無い、それに加えて猫以外にはビビり散らす。動物との相性を知る以前の話である。

 

しかし無職である今、彼らを守る術がないのだ。

否、ない事はないかもしれないけど、とにかく優先すべきは我の癒しである。

執筆も気まぐれではあるが、猫がいれば速度は百万倍…否、嘘です、頑張ります。

ではでは。また。

 

 

 

明るい世界へ行きたい。

そう思って、好きなことを沢山やろうと思った。

仕事をやめて、夢だった小説家の夢を追いかけよう、そう決めてから早くも二ヵ月が経過している。正直焦っているが、そんな焦りが数か月後にはなくなっているかもしれない。否、無くなっててくれたらそれ以上に有難い話もないが。

 

まあそう簡単にいく話でもないのだろう(絶望的である)

 

運よく転生でも出来ないか、はたまたいつか取りたい芥川賞に選ばれないか(投稿すらしていない)、またまた魔法少女にでもなってないかと理想が高まる日々である。(これを世の中では現実逃避と呼ぶ)

 

今書いている小説の主人公も大学生でバイトの面接に落ちまくっているが、同じ道を辿る気しかしない。なんとしてでも避けなければならない。

今書いてる小説はファンタジー(?)ものではあるが、時々主人公の心情やらが重なる。作者としては当たり前かもしれないが、書いていて楽しくもあり、自分の事を書いているような気もして非常に気まずい。題名すら決めていない、早く決めろ私。

 

今日は比較的明るく過ごせた一日だった、日曜日は不思議と元気。

今はもう休みだの平日だのと関係ない生活だけど、ゆとりある生活がしたい。お金が欲しい(貪欲)。

 

未来の私はきっと明るい。幸せになっている。

そう信じていないと、今こうやって文字を打つことすら出来なくなってしまう。

 

明日は晴れだったら、早起きをして少し散歩をしよう。では。

運命に左右される気がした土曜日。

世界は自分が思うほど、広くはない。

似たような言葉を昔の偉い人が言いました。

 

私は小説家を目指す小さな小さな物書き。

格好付けた言葉も、赤裸々な体験談を元にしたショートストーリーも、いろんなものを趣味として書いていますが、偶に、見失うこともあります。

これを読んでいる人もいない人も、迷う、という事は多々体験してきたことでしょう。

 

人間は迷う生き物です。

迷って足掻いてもがき、苦しみ選び彷徨う生き物です。

 

それは私も例外ではなく、みんな同じ。

色んなものを失くして、色んな罪を犯しました。

小さな罪とて、其の人にとっては大罪かもしれません。手折った、又は誰かに手折られた羽根は今何処にあるのでしょう。

 

人間は元々、天空で生きる生き物だったのかもしれない。

あったはずの羽根を探して、この地に降りてきたのかもしれない。

今も悲痛に嘆くこの胸の痛みは、何処かに落とした羽根からの合図かもしれない。

 

そんなことを考えて、私は今日も生きてきました。

 

正直、死にたくはないけど生きたくはない、という不思議な感覚の中で生きている私には過ぎた想いかもしれませんが。

 

 

初めて口にした酒の味と、今味わう酒の味が異なるのと同じで、人間は良い意味でも悪い意味でも進化していく。

だから、何時か落とした羽根を見つけたときには、空へ飛んでいけるのかもしれないとどこかで信じているのも、嘘ではありません。

 

 

なんて、酒飲みの戯言も今日はこれくらいに。また。

泣きじゃくった日。

今日はこれでもか、というくらい泣きじゃくった。

突然不安になったのも、私の抱える病が生じてか、それとも偶々今日がそういう気分の日だったかはさておき、泣いた。

今泣きすぎて目が痛い。自業自得だがよしよしされたい。

 

このご時世、人に触れるのも会いに行くのも躊躇う時期だ。気にしない人もいるのだろうけど、少なくとも恋人や友人に感染されると困るので私も大人しくしている。しかし、心の中では「こんちくしょう」という気持ちが消えない。それが大きな波になって、よしよしされたいようなどと大の大人が泣き喚いた。私である。

 

こんなことを赤裸々に語るのもお恥ずかしいが、泣き虫には泣き虫なりのスイッチが存在する。泣きたい時、そうでもないが疼く時、泣き喚いて人を困らせたい時、一人密やかに泣きたい時、様々である。(泣き喚いては一喝される未来が見える)

 

人は泣ける生き物だ。否、他の生き物の事を知らないから何とも言えないが、多分涙を流せるのも笑えるのも人間の特権だろうと思う。少なくとも、今はそれを有効活用する時なのだ。

未来の私が幸せである為に流した涙なんだと思えば、今日流した涙も別に無駄ではない(と、思いたい)

 

 

それと、私は最近本が読めないでいる、元々本好きだったにも関わらず活字を落ち着いて読めなくなってしまったのだ。原因はわかってない(というか探していない)が、今日、本屋で何となくぶらぶらしているときに気付いた事があった。

本の題名、見出し、広告文や宣伝文に心が躍らないのは、私が他者を信用していない所為ではないかと。それに気付いて、気付けば家に帰って泣いていた。

世の中、気付きたくないことで溢れている。

それに直面した時、人間の心は案外脆く崩れる。

小説家になりたい私が本を読めない時点で致命的だが、それよりショックだった今日の日のことは、しばらく私の中で大事な課題になるに違いない。

 

明日は笑えますように。では。

 

帰り道。

行きはよいよい、帰りはこわい。

と、皆さん聞いたことがあるでしょうか。(正しい表記がこれだったか、正直私は曖昧ですが)

 

本日晴天の中、私も昔からの友人と水族館へ行きました。死ぬほど暑かったです、死ぬかと思ったし、イルカのショーで浴びた海水が肌に合わなかったらしく、ちょっと湿疹が出てます。でもイルカに罪はない、そう、可愛いから。可愛いは正義。

そんなこんなで、普段からよくこの友人とは遊ぶのですが、何せ中学からの付き合い故にか特に別れ際を惜しむようなこともなく。

 

それでも、偶に、ごく稀に考えるのです。

もし、明日この人と会えなくなったら。この子に限ったことではありませんが、出会ってきた人たちはどんな付き合いであれ、別れてきたとはいえ、今の私を形成する一部。そう、自然と受け入れることが出来るようになったのも、つい最近の話なのです。

 

誰もが繰り返してきたであろう別れや出逢い、出逢いは別れの始まり、別れは出逢いの終止符、そう表現してきた人は五万といるでしょう。私と友人は、いつも明日も当たり前の様に会うような感覚でいつも別れます。

 

 

ばいばい、と、さよなら。

この二つの違いは、再び会うか会わないか如何かなのではないかと、生まれてきて二十数年、漸く辿りつけた気がする。いつ会えなくなるか分からない、こんなご時世です、お互いに何があるかも分かりません。そんな明日が、私は怖くて仕方がないのです。音にすることはありませんが、明日が怖い、と思いながら数年、もっとかもしれませんが、生きてきて、今も生きています。ブログを書いています。

 

帰り道、友人の運転する車に揺られながら見えた夕日をぼんやり見つめている車内で流れる、YOASOBIさんの「夜に駆ける」。大好きな曲です。

 

もし、これを読む貴方にも同じ気持ちがあれば、きっと私と同じく素直じゃない性格なのかもしれませんね。素直じゃなくても、何だかんだで自分の生きている人生を捨てきれない負けず嫌い、不屈のファイターというやつです、すみません、少し格好付けました。

 

では、今日はこの辺で。